
皆さんこんにちは! 精神科医のチフィです!
「親父が自殺して良かったこと」シリーズ、第3弾です。笑
このままズルズルと、気づけばこち亀を超えてしまったらどうしようと心配していますが、なんとか次の第4話で終われそうです…この記事では終われませんでした。笑
さて、前回までがこちら。
今回は第2話でもお伝えしておりましたが、
- 親父が生きているうちにやっておけばよかったこと
について書いていきます。
本来、「親父の自殺にまつわる後悔と、学んだこと」を伝えたくて記事を書き始めたのです。つまり言ってしまえば、第1話に書いた「親父のう◯んちが飛び散りやすい」とか、そんなことはどうだっていいのです。親父からしたら完全にとばっちりで、とばっちりの飛びっ散りです。
でも、僕・親父・母の関係だったり、周りで支えてくれた人たちなんかの情報を踏まえてこそ語れる話も沢山あります。
また、これまでの記事を読んでくれた人に、僕と自分を重ねてみて欲しいという狙いもありました。
「いや、私だったら△△じゃなくて◯◯するなぁ〜」
「俺はここで△□と思ったけど…」
同じ経験をしても、そこで思うこと、そこから学ぶことは人それぞれ。
そんな当たり前な、しかしとっても大切なことを、僭越ながら思い出してもらえればなと。
では本編です。
Contents
親父が生きているうちにやっておけばよかったこと
何か自分にとってマイナスな体験をしたとして、そこから反省点を見つけ、次に活かすことはできます。しかし、その体験、その瞬間自体をやり直すことはできません。
「親父が生きているうちに◯◯やっておけばよかったなぁ…よし、やり直すか…」と、死んだ親父を生き返らせることはできないのです(もし出来る人がいたらすぐ連絡ください)。
”大切な人たちがそばに居てくれる間、その人たちとどんな時間を過ごしたいか”
この記事が、そんなことを考えるきっかけになってくれたら嬉しいです。
家にもっと居場所を作ってあげればよかった
これはまだ僕と親父と母が3人で住んでいたときの話です。
前編でも書きましたが、僕と母は完全にツーマンセル、2人1組みたいになっていて、母子2人 対 親父 という構図になっていることが多かった。僕は親父のことを「寝てばかりで、汚くて、いつも機嫌が悪い怖い人」と思う節があって、母は僕の世話にべったり。
仕事で疲れて帰ってきた時、果たして親父はそんな家庭で安らぐことができたのだろうか…疎外されていると思っても無理はないのでは?余計に機嫌が悪くなっても仕方がないのでは?
家族はあくまでチーム。3人が一丸となって進んでいかなければいけなかった。カカシ先生も教えてくれていたのに…
僕がもっと親父の仕事の大変さ、孤独な気持ちを理解してあげていれば、家庭内・夫婦間もうまく行ったんじゃないかと、今になって思います。
でも、じゃあ実際に小さな子どもにそこまで理解させることができるかというと…
正直難しいだろうなぁ。
子どもに分からせようとさせるだけでなく、
大人も分かってもらうために努力すべき
家族間、親子間とはいえ、そういう姿勢は必要なのかなと。これに関しては長くなっちゃうので、別の記事に分けます。
まとめると、
お父さん(お母さん)の居場所つくりに関しては、子ども自ら意識して行動するのはなかなか難しいかと思うので、奥さん(旦那さん)の思いやりが必要になってくるかも。
子どもはかなり親の影響を受けますので、まずお父さん・お母さんが姿勢を変えてみるのが大事なのかな。
一緒に酒を飲みたかった
これは本当にやりたかったし、実際父親と飲みに行ったっていう話を友達から聞くたびに羨ましいなと思います。
親父とのサシ飲みって、なんだか僕の中で「ついに大人の仲間入り」っていうイメージが強くて。
これまでは守られ、育てられてきた子どもが、これからは父親と対等な一人の「大人」として生きていく。
僕はサシ飲みに、その通過儀礼のような意味合いを勝手に感じていました。
「仕事でこんな事があってさ…」
「最近彼女が出来たんだけどさ…」
男と男だからこそ話せる話だっていっぱいありますしね。
「俺が貸した陰陽師のビデオテープに、なんでナースもののAV上書きしちゃったの?」って、最後まで聞けなかったな。
今まだお父さんやお母さんと飲む機会がある人は、そのありがたさを噛み締めていただきたい。そしていろんな話を聞いてみてください。
親父自身や、僕たち家族についての話を聞きたかった
実は僕、親父が小さい時どんな子どもだったのかとか、どこに住んでたとか、そういうの全然知らないんですよね。
断片的に、「電車のドアに顔が挟まったまま隣の駅まで運ばれた」みたいな小ネタだけいくつか持ってるんですけど…
親父が学生だったときは今より在日差別が激しくて、それこそ映画のパッチギみたいな抗争がしょっちゅうあったとも聞いてます。
阪神淡路大震災の揺れを、家の近くの工事現場のせいだと勘違いして文句言いに行くような喧嘩っ早い人だったし、たくさん喧嘩なんかしたのかなぁ…
もちろんそういう話は、幼馴染である母だったり、親父の育ての親である祖父母に聞くこともできます。でもやっぱり、その時どんな気持ちだったのか、どんなことを感じたのか…なんてのは、本人以上の語り手っていないわけで。
仕事のことだってそう。他の道も選べたはずなのに、なんで祖父の土木業を継ぐことにしたのか。社長業というのがどれだけ大変なことなのか。
それに、母や僕に対してどんなふうに考えていたのか、親父にとって僕ら2人はどんな存在だったのかというのも聞いてみたかった。
母との出会い、付き合い結婚を決めた理由、僕が生まれたときのこと、人の親になるってどんな感じなのか、子育ての何が大変で何が幸せだったか…
よく考えたら、僕の歳の頃には、両親はもう結婚どころか出産まで終えてるんですね。冷静に考えるとなかなかに凄いことで…大学在学中にサザエさんの年齢を超えたときもかなり衝撃を受けましたが、僕もいつの間にかいい大人になっていたんですね。
いつの間にか、受け継いだものを次の世代に伝えていく立場になっていたんだなぁ。
人として、男として、夫として、父としての先輩から、直に話を聞いてみたかった。
結婚相手を紹介したかった
前の話とも重複するんですけど、今度は自分が愛している人、自分を愛してくれている人、新たに家族に迎える人を紹介したかった。
結婚相手に僕の幼少期のダサい話なんかを聞かせて、嫁になる人に「チフィくん、そんな一面もあったんだね」とニヤニヤされ、「こんな愚息だけど、これからも仲良くしてあげてください」と託されたかった。
もちろん、そのときになったら僕は母親にちゃんと紹介することになるわけですが、やっぱり「父親」というのは特別な存在な気がしていて。
男性の場合、相手のご両親にご挨拶するときも、お義母さんよりお義父さんの方が緊張しませんか?僕はしました…笑
なんにせよ、他の人より「家族」というものに、良くも悪くも敏感になっているところはあるかもしれないですね。家族が増えるということに人一倍喜びを感じる体質。
もちろん、ゆくゆくは子どもや孫ができる(できると良いなぁ)わけですが、孫やひ孫を見てデレデレしている親父の顔を見てみたかったな。あんまり想像つかないけど。
それに関しては、母親の顔を見て存分に楽しもうと思います。
昔と同じシチュエーションで写真を撮りたかった
これはシンプルに僕の好みの問題ですが笑
僕がまだ小さいこどもの頃、公園で遊んでもらったり、旅行に連れて行ってもらったりしたとき、家族みんなで撮った写真がまだ残っているわけです。
大人になった今、昔の写真と同じ人・同じ場所・同じシチュエーションで写真を撮って見比べたい。
「このとき親父、間違えて池の水飲んだよね」「いやお前こそ、おもちゃが欲しいとかで泣いて大変だったぞ。お前も大人になったもんだ」「親父こそ、随分髪の毛涼しくなったな…」
などといった会話をしたかった…考えただけでエモい…
やろうと思えば、いつでもできることばかりだった
ここまで、親父が生きている間にしたかったこと、死んでからの後悔について書いてきました。
こうして振り返ってみて気づいたことがあります。
それは、僕はどちらかというと「◯◯に一緒に行きたかった」といった類の後悔よりも、「お互いのことをもっと話して知っておきたかった」という後悔がベースにあるということです。
そして、そのどれも、僕がその気になればいつでも簡単にできることだった。なのに自分が楽しい事ばかりに目を向けて、忙しいからと理由をつけて後回しにしてきた結果、もう二度とできなくなってしまった。
最初の記事でも紹介しましたが、人生会議について改めて。
人生会議、本当に必要だと思うなぁ。
もちろんポスターを見て辛いって思う人もいるんだろうけど、そういう人たちの意見って叩きにくい風潮があるから、マスコミもネタとして取り上げやすいのかな。
ブログ久々に書こっと。#人生会議
— 精神科医チフィ (@dr_chifi) November 28, 2019
ここでいう人生会議は、「人生最期を迎えるときにどんな医療を受けたいのか、ちゃんと家族で話し合っておきましょうね」という意味合い。
でも僕はこの人生会議、医療に限らずあらゆる側面でやったほうが良いと思うわけです。全部含めて人生会議。
家族というチームがバラバラにならず一致団結して進んでいくためには、お互いに知る・知ってもらうことが必要不可欠。もちろん意識せずともできてしまうのがベストですが、なかなか難しいかもしれない。
でも、「定期的に人生会議はしたほうが良いよね」って頭の片隅にあるのと無いのとでは、過ごし方がまるっきり違ってくるはず。
定期的な人生会議を!
「これくらい言わなくても分かってくれてるだろう」と過信しやすい。
でも、家族といえど別の人間。自分と考えが違って当たり前。
何を考えているのかは、結局話してみないと分からない。
そういう意識を根付かせるという点で、この厚労省のポスターは非常に有意義なものなんじゃないかなと思いました。
そして家族だけでなく、自分の中だけでも人生会議って必要で。
- 自分が本当にやりたいこととは?
- そもそも自分ってどんな人間なんだ?
- 今自分や家族が死んだとしたら、どんな後悔をするだろう?
- どんな人生を送りたい?どんな死に方をしたい?
- 理想の自分を思い浮かべたとき、周りにはどんな人達がいる?
ふと立ち止まって、これらのことを考えてみるのも、人生における定期的なメンテナンスの役割を果たしてくれるのではないでしょうか。ソラニンでいう「俺サミット」ですね。
会議といっても、なにも毎回予定を合わせ、ビシッとスーツを着てやる必要なんかありません。
一緒にご飯を食べているときとか、リビングでテレビを見ているときとか、ちょっと買い物やドライブにでかけたときとか、そういう日常の中の些細な時間で十分。
話す内容だって、大それた議題じゃなくても、「今日こんな事があった」とか、「将来はこんなことがしたいね」とか、「旅行でこんなところに行きたいな」とか、そんなことで良いと思います。何気ない会話こそ、本当に大切なことに気づかせてくれるもの。
常日頃から、話したいことを話せる関係でいること。
そして、共有する時間を大切に思う気持ち。
それさえ忘れなければ、大切な人たちと、これからももっと幸せな時間を過ごすことができるのではないでしょうか。
叶わなくなってから後悔するより、
後悔しないために今行動していきましょう!
そしていよいよ、次回が本当の最終話!
やっとタイトルにもなっている「親父が自殺して良かったこと」について書けます…長かった…
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