
皆さんこんにちは! 精神科医のチフィです!
さて、今回は前回の記事↓の続きになります。
親父の悩み、抑うつ状態に気づくことが出来なかっただけでなく
自分がとどめを刺してしまったのではないか
当時、そんな思いから自らも抑うつ状態となってしまった僕でしたが、
今は、こうも考えられるようになりました。
「親父が命をかけて教えてくれたこと」、という解釈が正しいのかもしれませんが。
さて、この記事では、僕を悲しみの淵から救ってくれた人たちについて書いてみようと思います。
(当初は前編と後編の2つにするつもりだったのですが、まとめることが出来ず…結局3部作になりました、お許しください。笑)
→結局4部作になりました。
助けてくれた人たち
もちろん、数え切れないほど多くの人に救われてここまで来ました。
親父が亡くなった直後だけではなく、思い出し泣きのようなときもたくさんあって、そのたびに僕は周りの人達に助けられてきました。
そのすべての人々に感謝しているのですが、中でも僕が強く感謝をしている人が、3人います。
母親
まずは言うまでもなく、これまでずっと一緒に生きてきた母親です。
親父の自殺に対して、母は僕以上の責任を感じていたに違いありません。僕を思ってのこととはいえ、結果として金銭の援助を求めてきた親父を突き放して拒絶したわけですから。
これは後になって母から聞いた話なのですが、母は親父と離婚するときに、こんな約束をしていたそうです。
今はお互い心の余裕がないけれど、チフィが大人になって落ち着いたら、また一緒に過ごせる時間が来る。
そのときのために、私はチフィを一人前の大人に育てる。だから貴方も頑張って働いて、いつか私達2人をまた迎えにきてほしい。
またいつか、一緒に幸せに過ごせる日が来る。そう信じてやってきたと。
だからこそ、離婚・国籍の帰化と、名前を変えるタイミングは2回もあったのに、母は名字をずっと変えませんでした。
そんな思いを胸に頑張ってきたのに、関係はこじれ、最終的に親父は死んでしまった。きっと計り知れない悔しさ、悲しさを感じていたと思います。
でも、母はこれまでと変わらずいてくれました。僕と一緒にずっとふさぎ込むわけでもなく、強く、優しく、ユーモアのある、これまでどおりの母親のままでいてくれました。
僕より辛いかもしれない母親に、いつまでも守られ続けてはいられない。
親一人、子一人になってしまった僕たちが支え合って生きていくしか無い。
そんな当たり前のことに気づいていなかったけど、母はそれを背中で見せてくれた。すごい人です。漢です!
叔父(親戚)
↑写真は知らないおじさんです。
親戚一同には、とても助けられました。
祖父母、叔父叔母、従兄弟たち。近くに住んでいるというのはとてもいいことで、よくご飯に招いてくれたり、うちに遊びに来たりしてくれていました。
(当の父方の親戚一同とは、思い出してしまうので当時あまり会う気になれませんでした)
そんな中でも、僕が今でも忘れられないのが、叔父に言われた言葉です。
僕があの時電話に出ていれば、電話をかけ直していれば、親父はもっと生きてくれていたかもしれない。僕が人生を終わらせてしまった。
そんなことを相談したところ、叔父はこう言いました。
いや、そうじゃない。
むしろチフィがいたから、お父さんは今まで生きてこれたんだよ。
もしチフィがいなかったら、もっと早くに限界が来てしまっていたと思う。
最期の最期まで、お父さんにとってチフィは、生きる理由だったんじゃないかな。
めっちゃくちゃ良い言葉じゃないですか…?僕、大号泣しました。笑
普段、自分の娘(僕の従姉妹)に「行ってきますのチュ〜〜は!?」と言っては苦笑いされていた叔父から、まさか僕の人生を変えるこんな言葉をもらえるとは夢にも思っていませんでした。
僕はこれまで勝手に責任を感じていましたが、この叔父の言葉で本当に救われました。
そして同時に、「物事の意味付けは、自分の見方によって好きなように変えられる」ということを、この瞬間に悟ったのでした。
先輩
3人目は、大学時代の軽音楽部の先輩です。
僕が入部したときの部長にあたる先輩なのですが、僕にとって人生の師とも言える人です。
僕ら後輩は、イケメンとか神とかカリスマとかヤバいよあの人とか言ってました。先輩のパートはドラムだったのですが、当時軽音部に入部した同級生の過半数が先輩の魅力に引っ張られてドラム志望になってしまうというほどのカリスマでした。
先輩は、お酒を知らなかった僕らを手厚く歓迎してくださり、入学二日目に僕が力尽きて終電後の線路で眠ってしまったのは、この先輩の愛の力によるものです。
その他にも、ビッグマックを大量に食べさせられたり、2月の海に放り出されたり、よくプロレスの技をかけられたり、深夜にボーリングして顔に墨を塗られたり、Tシャツを破られたり…あれ?いい話あったっけ?
こう見ると「ただのヤバい人」なんですけど、僕らはとにかくその先輩が大好きで大好きで。
僕は先輩が卒業するまで、数え切れないほどのところに連れて行ってもらったし、深夜に呼ばれたら急いで馳せ参じたし、むしろ「先輩今何してますか?僕たち、暇してます!」と電話をすれば、どんなに遅い深夜でも必ず来てくれました。
で、前の記事にも書きましたが、母親から親父が自殺したと電話が来たとき、僕はちょうど軽音部のライブ中でした。とは言え、その日は主にOBのためのライブで、僕らはあくまで見に行っているだけでしたが。
電話を受けた僕は頭が真っ白になり放心状態。
先輩に「なんかよく分からないんですけど、親父が自殺したらしいです」と伝えました。
すると先輩は、「よし、なんか一発やろう。歌いなよ」と、OBたちに頼んでメンバーを募り、予定にもなかったのに無理やり枠をあけてくれたのです。
そこでやったのが、銀杏BOYZの「駆け抜けて性春」でした。その歌詞がまた、なんだか僕ら親子を言い表しているような気もしましてエモい。一部抜粋。
駆け抜けて性春
ライブはもちろんライブハウスなので屋内なんですが、その時のことを思い出すと、不思議なことになぜか頭に青空が浮かんでくるんですよね。めっちゃキザなこと言うけど、あの時の歌は空まで届いてくれたんじゃないかなーって思ってます。ほんとキモいけど許して。
その後、僕が落ち込みフェーズに入った時も、先輩はこれまで通りに遊びに誘ってくれました。一人で家にいるとあれこれ考えてしまうので、この誘いはとてもありがたかった。
ある夜、普段どおりに集まってみんなで遊んだ後、深夜に先輩が家まで送り届けてくれました。家の場所的に僕が最後だったんですけど、あぁまた帰ったら考えて眠れないんだろうなぁーと漠然と思っていました。
一見、豪快でワイルドな人のようですが、先輩の「察する」力は半端じゃありません。その時も、僕の「今日は帰りたくないな…」オーラをキャッチしたのでしょう。
普段はワイスピから出演オファーが来るんじゃないかってレベルのスピード狂なのですが、その日に限ってめちゃくちゃノロノロ運転。後ろの軽に煽られても、ゆっくりゆーーーっくり走ってくれた。その優しさが嬉しかった。
家について車を降り、先輩を見送ってからも、僕はなんとなく家に入る気になれなくて、深夜の駐車場でぼーーっと過ごしていました。
タイヤ止めに座ってあれやこれやと考えてるうち、気づいたら1時間以上も経過。
流石にもう寝るか…と思って腰を上げ、駐車場の前の自販機でジュースを買って家に戻ろうとした時。
ふと道路の方に目をやると、ちょっと離れた場所に、なんとまだ先輩の車があったのです。え、別れてから1時間以上経ってるし、もう朝4時よ!?
先輩は、僕が家に入れずにぼーっとしているのを心配して、僕が家に入るまでずっと待ってくれていたのでした。声をかけに来るでもなく、ただただ待ってくれていた。
僕が先輩の車に目線をやったら、何も言わずスッと走り去っていきました。この話、のちのち先輩にすると「いや、俺すぐ帰ったよ笑」とはぐらかされるのですが、毎週のように見ていた先輩の車・ナンバープレートを見間違えるわけがありません。
優しい言葉を投げかけることだけが救いじゃない。先輩の本当の優しさを実感し、「僕も先輩みたいな、芯の優しい人になろう」という思いを更に強くした、忘れられない夜でした。
この先輩には今でも仲良くしてもらっていますが、これからも一生のお付き合いをしていくつもりです。あちらがなんと言おうと笑
人との繋がりこそ、世界そのもの
日本人は自殺が多いとよく言われますが、実は日本の自殺者数は9年連続で減少しています。
様々な要因が絡んでいるとは思いますが、先輩医師が先日、「自殺者数が減っているのに、日本の精神科医の頑張りが少しでも良い影響を及ぼしているとしたら…なんだか誇らしいよね」と言っていて、精神科医ってとても素敵な仕事だな、と改めて思いました。
昔に比べて精神科・心療内科受診の敷居が下がったことで相談しやすくなったというのも、自殺者数が減っている一つの理由かと思います。
科学が発達し、人間の在り方・他人との関わり方も目まぐるしく変わっている昨今では、LINEやFacebook、TwitterなどのSNSを使ったイジメ、ネット掲示板での自殺オフ会など、これまでには想像もつかなかったようなことで人間が悩み、死んでしまうようになりました。1つの問題が解決しても、また新たな問題、新たな悩みが生まれてくる。
自殺を完全に無くすことは、恐らく不可能でしょう。
ただひとつ覚えておいてほしいのが、
自分の周りの人たちこそ、自分にとっての世界そのもの
ということ。本当にこれだけ。世の中金ダァ!ではない。
断言できますが、一人で生きていける人間などこの世に一人もいなくて、何らかの形で誰かと関わっています。知らないうちに誰かに助けられ、誰かを助け、与えられ、与えながら生きているのです。
関わる人・関わり方を決めるのは自分です。
世界の在り方を決めるのは自分なんです。
セミナーっぽい…と思われるかもしれないですが、この当たり前なんだけどとっても重要なことに、僕は親父が死んでから初めて気づきました。
当然、素敵で尊敬出来る人もいれば、「なんだこいつ!うざい!嫌い!」という人もいるでしょう。でも、それでいいと思います。
僕が言いたいのは「全人類みな友達。人を憎まず感謝し続けようね」ということではないです。実質そんなの無理。
僕が言いたいのは、
"その世界で彼らと生きていくしか道は無い"と錯覚しないでください。
ということです。
たとえ親と子、上司と部下のような、避けることの出来ない(と思いがちな)関係であっても、自分で付き合い方を決めることは出来ます。
こいつのココだけは見習ってもいいな。あとは全部クソだぜ!
と思ったら、盗めるところだけ盗んで、あとはポイッと捨ててしまってもいいんです。誰にも良い顔するのに疲れて、世界が見えなくなって、死んでしまう必要なんか全くない。
自分の人生の責任は自分しか取ってくれないが、その覚悟さえ持てば、世界はあなたの思うがままに作り変えることができる。
そしてその世界を成しているのは、いつでも人であり、繋がりである。
「考え方一つで世界は変わる」。そんなうまい話…と思うかもしれませんが、これは本当です。
そんな真理に気づけたこと、そして今までの人間関係に感謝し、まだ見ぬ出会いに期待できるようになったこと、そして必要ない人間を切れるようになったこと(笑)。
これこそ、親父が死んで、周りの人たちに助けられてきた中で僕が手に入れた、かけがえのない財産の一つです。
もし、どんな繋がりも見つからなくて、一人きりの世界に絶望してしまったら。
そんなときこそ、精神科が繋がりの一つになれます。
どうか頭の片隅で覚えておいてくださいね。
さて、長い長ーーい記事も、次でいよいよ最後ですやっと前半戦終了です。
これ全部読んでる人いるのかな。笑
次回の記事では、
- 親父が生きているうちにやっておけばよかったこと
について書いてみようと思います。指が取れそうです。
↓こちらからどうぞ。