
皆さんこんにちは。精神科医のチフィです。
先日、悲しいニュースが飛び込んできました。
ミスター好きだったのに…
個人的に、韓流アイドルの日本での火付け役がKARAっていうイメージを今でも持ってる。元KARAのク・ハラさんが死亡 自宅で遺体で見つかる: https://t.co/fddlZKP1uA
— 精神科医チフィ (@dr_chifi) November 24, 2019
僕はそこまで韓流ブームには乗っていないし詳しくないけれど、KARAのミスターは結構カラオケでも歌ったりPV見たりしていただけに、このニュースはなかなかショッキングだったわけで。
ブログの著者紹介ページにも書いてますが、僕も20歳のときに親父を自殺で亡くしています。
しかし実はこれまで、それについてちゃんと文章でまとめたことが無かったのです。
自分の振り返りという意味でも、いずれは書きたいなーと思っていたところに、今度はこちらのニュースですよ。
人生会議、本当に必要だと思うなぁ。
もちろんポスターを見て辛いって思う人もいるんだろうけど、そういう人たちの意見って叩きにくい風潮があるから、マスコミもネタとして取り上げやすいのかな。
ブログ久々に書こっと。#人生会議
— 精神科医チフィ (@dr_chifi) November 28, 2019
あぁ、これはいよいよブログ書こう…そう思った次第です。
親父の自殺は、僕にとってそれはそれはとても悲しい事件でして、今でもふと思い出すと辛い気持ちになったりします。
だからもちろんこの記事のタイトルは、「父親が自殺して良かった!」という意味で書いているわけではなく、一応自分の中で意図はあります。その意図に沿って、今回は僕の父親の話を書いてみようと思います。
今回のニュースで心を痛めた人も多いだろうし、親しい人が自殺をして悲しんでいる人も世の中には沢山いるはず。
ただ、この記事は、そういう悲しい経験をした人だけでなく、「まだ身の回りで誰も亡くなっておらず、死を実感できていない人」にも、是非読んでいただけたらと思っています。
書いたらとっても長くなってしまったので、2記事に分けました。最終的に4記事になりました。笑
この記事では、僕が成長する過程における親父との関係性などに焦点を当てています。
続編で、実際にこの事件から僕が学んだことなどを書いていきます。
Contents
父親が嫌いだった幼少期
生前の親父は、自分の父(僕の祖父)の跡を継いだ、小さな土木会社の社長でした。
会社のことはあまり知らないまま終わってしまったのですが、まだ小さかった頃に数回、親父のダンプに乗って職場を見学したことがありました。従業員の人達が父に挨拶をしたり周りに集まってくるのを見て、小さいながらに誇らしい気持ちを感じていたことはぼんやりと覚えています。
しかし仕事も忙しく、夜帰ってきても疲れですぐに寝てしまうという生活。しかも眠たいときの機嫌は最悪で超短気。また、親父は自分も現場仕事に立つゴリゴリの肉体労働者だったので、身長は小さくて細いながらに細マッチョ。
そんなこんなで僕は父親を「危険物」と認識し、"触らぬ神に祟りなし"として少しずつ避けるようになっていったのでした。
それとは別に、僕は僕で公文式・そろばん・空手・ピアノ・エレクトーン・器械体操などなど、売出し中のアイドルみたいなスケジュールに追われて過ごす日々。習い事の送り迎えは当時専業主婦だった母親がしてくれていたから、当然母親と過ごす時間の方が圧倒的に多く、ごく自然な流れで母親っ子になりました。
僕は一人っ子だったから、僕が母親にべったりになると、構図上親父が一人になってしまう。何か両親での揉め事があっても、当然僕は母の味方になる。「よくわからないけど、お母さんがいじめられている!」と思うようになります。
それに加えて、仕事着はいつも泥だらけで帰ってくるし、足は臭いし、お腹が弱くてしょっちゅうトイレに駆け込んでいて、それがまた飛び散るやら臭いやらで、文字通り散々でした…💩
(しかしその朝の弱さとお腹の弱さ、残念ながら僕がしっかり受け継ぎました)
当然親父は親父なりに、僕らのことを思って仕事に精を出し、色々頑張ってくれていたわけです。でも、まだ小さくて感謝というものを知らない幼少期の僕。父親に持っていた印象は、お世辞にも良いものでは無く…
つまり、「臭い、汚い、怖い、なのにあんまり存在感無い」という、将来自分の娘に言われたらその場でゲボを吐いて失禁しそうなほど酷いものでした。
その後、僕が小学4年生の時、いろいろあって夫婦仲がうまく行かなくなり離婚。僕は母親に引き取られて、名古屋から田舎の方に引っ越し・転校することに。
これまでいた小学校で順風満帆の生活を送っていた僕は、この転校を最後まで受け入れられませんでした。転校して約半年後経ってもなお "もうすぐ名古屋に帰れるはずだ…" と信じ続け、実際に学級委員に選ばれそうになったときも「え?僕ですか?僕はもうすぐ名古屋に帰るから無理ですよ」と断った記憶がうっすら…笑
この転校に関しても、もちろん父を恨みました。
とにかくあのときは、「家庭の中の悪いことは全部親父が引き起こしている」という考えに取り憑かれていたのです。
離婚したら、むしろ仲良くなった
距離が近いほど、相手の嫌なところも見えて嫌になる。
つまりはそういうことなのよね。
両親が離婚し、親父と月に数回程度しか会わないようになると、だんだん父のことを冷静に見れるようになってきました。「あれ、こいつ、そこまで悪い奴じゃねーな?」と。笑
そもそも一緒に住んでいたときだって、僕も親父も疲れていて家ではだいたい寝ていたし、会話がめちゃくちゃ多かったわけでもない。逆に月に数回程度しか会わないとなると、むしろその時しか会えないから色々喋るわけです。結果として、会話量でいうと別居前とそんなに変わってなかったのかもしれません。
何が変わったかというと、普段会えなくてあちらも寂しく思っていただろうし、僕にも色々申し訳なかったのか、これまでに比べて明らかに優しいんですよ。え?めっちゃケーキ買ってきてくれるやん?色々連れてってくれるやん?
僕も転校を機にバッサリといろんな習い事を辞めて、「放課後や休日に遊べる」という普通の子供の生活を取り戻し、時間と心に余裕ができていました(すぐに中学受験のために塾通いが始まり、放課後は遊べなくなったが)。
田舎の学校での生活にも慣れて、親友と呼べる友達も出来た。放課後は友達と遊んで、休日になると親父がケーキを持って現れ、何処かに連れて行ってくれる。そして家に帰っても、飛び散った💩は見当たらない…ええやん、この生活?
医学部へまっしぐら
なんだか僕の人生を振り返るみたいになってますけど、必要だから書いていきます。
結婚生活の中で、親父と母親は色々な面で考えが合わずに対立していたようですが、その一つが教育方針。
母は、「今のうちから塾などに通わせ、将来は安定した職業(特に医者)に就かせたい」という、ビションという言葉では生ぬるいような…野望に似た想いを持っていました。
僕が思うに、僕を大切に思う気持ちも勿論だけど、自分が幼少期に差別を受け、大学進学もせず、かと言って本当にやりたいことも見つけられず…といったバックグラウンドがあり、そういった無念さ・後悔のようなものも相まって、「せめて自分の息子は…」と頑張ってくれたのではないかとも思っています。この点は母に感謝しか無いけれど。
それに対して親父はロックンローラーなので、「習い事とか要らんやろ?とにかく今を生きるんや…!(ってか金無くて今困ってるのに習い事してる余裕ねぇゾ?)」と、真っ向から対立していた様子。
そして離婚後、母に引き取られた僕は…当然そうなりますよね。母の方針に口を出す者が居なくなった今、いよいよ教育ママに拍車がかかるわけです。
とは言えここで言っておきたいのは、小学生時代は塾があまりに楽しくて、「母さんに無理やり勉強させられてる」という感覚はほとんど無かったということ。
加えて、「周りからあそこは母子家庭だからしょうがないねとナメられたくねぇ!」という強い気持ちのもと、母親がバリバリ働き、家事も遊びもしっかり面倒を見てくれたのでした。
結果として、裕福でもない母子家庭だったけど、僕自身は特に母子家庭であることの負い目を感じることも、何か物が無くて不満!ということもなく育ちました。僕が知らないところで母は一人汗水垂らして働き、僕の前ではそんな苦労は見せないように明るく振る舞ってくれていたわけです。
(母ちゃんありがとう。LINEスタンプまた買いますね。)
そんなこんなで、小学4年生から再び塾通いが始まり、いよいよ精神科医チフィの誕生に向けて人生が走り出します。
勉強の末、なんとか私立の中高一貫校に合格。6年間の濃い男子校生活(いずれ記事書きたい)を終え、あっという間に大学受験の時期に。
医学部に進学して医者になるため理系コースを選択。さぁいよいよ、本腰入れて勉強するぞ!
そんなギリギリのタイミングで、僕はとんでもないことに気づいてしまいました。
別に、医者になりたくないな…
あろうことか、医者になりたい欲が全然ねぇ!
明らかに気づくのが遅すぎたわけだけど、全然医者になりたくない。
なんか言われるままに私立の中高通って医学部で希望出したけど、別に◯科の医者になりたいって希望もないし、医者になって人を救うぞ!って情熱も無い…まぁ母ちゃんも期待してるし、なんとなく偏差値的に医学部かな?くらいのヌルい理由しかない。
こんなモチベーションで勉強が捗るはずもなく、現役のときには丸々2科目分くらい点数が足りずに国立大学不合格(金銭的な理由で、私立医大は受けてすらいない)。
浪人後もやる気は出ず、塾に通うフリしながら家でずっとネトゲやってました。フリフオンライン。これはまだ母親には話せてないけれど…こんな生活送ってました↓
チフィの浪人生活
この生活続けたお陰で、無事10kg太りました。
それなのにラッキーパンチが当たり続け、なぜか模試の成績は毎回良いんですよ。学力はほとんど中学時代の貯金だというのに…それで塾のチューターや親も、「これなら行けるよ!」と勘違いして後押ししちゃう。
この成績がマグレなのは僕が一番よく知ってるわけで、勉強してないんだから受かるはずが無いという確信がありました。
自分がサボってたくせに、受験に落ちるのは苦しい。傷つきたくない。逃げたい。
なんでこんなことをしなきゃいけない?
そういうわけでセンター試験直前、「俺、医者にはなりたくない。東京出てバンドで食っていきます」と突然のロケンロー宣言。
教科書をすべて紐で縛ってゴミに出すというイキリっぷりです。
とはいえ、母に言い放った「医者になりたくない!」なんてのは嘘八百どころか嘘8億くらいで、シンプルに「あぁどうせ落ちてまた浪人じゃん…先見えねーよ…勉強したくねーよ…ただそれだけなんだよおぉ…」というのが本音。
でも当時はそれも分からず、「俺本気でバンドマンになりたいのかもしれない…!?」と錯覚するほどに心に余裕がなかったのです。
その晩は2人で泣きながら家族会議し、「せっかくここまで頑張ったんだから、一度医学部に入ってみて、もし他にやりたいことが見つかればそっちに進めばいい」と母親に説得された僕。これ以上無い正論でびっくりしました。
僕はすぐにゴミ捨て場に直行。ゴミ収集車が来る前になんとか教科書を全て回収。
あの瞬間、僕の中のロックンロールは終焉を迎えました。あの荷解きが人生で一番ダサかったなぁ。
合格して上り調子の僕と、借金でどん底の親父
たまたま予備校で受けた直前予想講座がバンバンあたり、なんとか志望大学に合格。母も親戚も、もちろん別居していた父も、連日自分のことのように祝ってくれました。顔は相変わらずデブで犯罪者みたいだけど、笑顔垂れ流しの日々を過ごしていました。
その幸せな日々は、大学進学後も続きます。
入部した軽音楽部はとにかく強烈で個性的で面白い人ばかりだったし、最高の同期にも恵まれました。車の免許を取って行動範囲も広がったし、家庭教師のバイトなんかも始めて、「自分で遊ぶお金を稼ぐ」ということが出来るようになりました。
もちろん学費は授業料免除だったり奨学金を申請したりと、決して裕福な生活とは言えません。それに、相変わらず医学には興味を持てませんでした。
でも、大学生活は本当に最高でした。僕の中で、誇張なしに "人生が好転し始めた" ことを実感できた時期でした。母親としても、「あとの大学6年間を乗り切れば、医者になって安定した生活を送れる力をつけてくれる」と安堵していたようです。
しかし、幸せで浮かれきっていた僕とは対照的に、この頃の親父はどん底でした。
当時の親父は、長年に渡る会社の借金がかなり膨れ上がり、もはや首が回らない状態だったそうです。借金のせいで、母親への生活費の援助額も、僕が高校生くらいのときから徐々に減っていき、ついには催促しても振り込んでくれなくなっていました。
親父は僕には直接このことを言ってこなかったので、僕がこれを知ったのは入学した年の年末頃でした。
その年末、それまで僕に黙っていた母がついに重い口を開いた理由は、「チフィの名義で金を借りてくれ。医学部なら信用もあるし借りれるだろう」と、ついに親父が母親に金を無心するようになったからだった。
母としては、「事もあろうに私が一人で一生懸命育ててきた息子に、何故アンタの借金を背負わせなきゃいけないの?」というわけで、二人の間で戦争のような状態になりました。
当然僕は母親に味方します。親父には申し訳なかったけれど、もう別居して長いこと経つし、「これまで育ててくれたのは母親だ」という意識がどうしても強かった。
しかも勝手に膨れた借金を俺に押し付けるなんて意味不明だったし、極端な話「俺には今始まったばかりの、輝かしい将来がある。邪魔してくれるなよ」という驕った思いもありました。(とはいえ、僕から親父を直接非難したことは一度もありませんが)
離婚してしばらくは毎月会っていたのに、高校生くらいから、親父と会う頻度は徐々に少なくなっていました。大学に入学してからは、2、3ヶ月に1回くらいになっていたと思います。とにかく大学生活が楽しすぎて、家族と過ごす時間を疎かにし、問題に向き合うことを避けていました。
そしてついに母親から、「今日電話で大喧嘩した。アイツとはもう会わない方がいい。あんたは2人の子供だから好きにすればいいけど、少なくとも私は顔も見たくない。」と言われ、僕は " あぁこの夫婦は完全に壊れてしまったんだ "と実感し、"いよいよ親父が過去の人になっていくなぁ" と、ぼんやり思ったのでした。
突然の死
親父と会うことこそ無くなったけれど、僕は親父に強い恨みがあるわけでもなく、たまにメールのやり取りはしていました。
僕が成人式を終えたときもお祝いのメールをくれて、「二十歳になったし、今度一緒に飲みに行こう」と僕が誘い、それに対して喜んでくれていました。今でもそのやりとりが残っています。
しかしこの約1ヶ月後、一緒に飲みに行くという約束を果たすことなく、親父は自殺しました。
僕ら3人が昔一緒に住んでいた家の近くの川沿いに車を停め、車内で練炭を焚いて死んでいるところを警察に発見されました。
借金自体は破産宣告をすればなんとかなったんじゃないか、と母や周りの人達は言っていました。プライドの高い人だったからそれが許せなかったのか、はたまた抑うつ状態で思考停止していたのかは分からないけれど、とにかく親父は死にました。
僕はこの知らせを、ちょうど軽音部のライブ中に母から受けたのですが、その時は正直何の実感も湧かず、「え?死んだ?死んだって何?」という感じ。
「死んだのか…そうか…」と考えても、涙が1滴も出ないことが不思議でしょうがなかった。
初めて死を実感したのは、葬儀場に着いてからでした。父の亡骸が安置されている部屋の扉を開けた時、突然心の底から怖くなって手足が震えました。到着した僕を振り返った祖父母(親父の実の両親)や母たちの顔を見て、全身がスーッと冷めきっていくのをリアルに感じました。
そして、死んだ親父を見ました。
「生前は強く、恐怖の対象でもあった父親が、自殺して死んだ」というのを、遺体をこの目で見て初めて理解し、その場にしばらく立ち尽くしました。そしてその後、親父が僕に残した遺書を祖母から渡され、それを読んでから初めて、狂ったように号泣しました。
死について考え続ける日々
僕はそれまで、身近な人が死ぬという経験をしたことがありませんでした。
ばあちゃん、じいちゃんといった、まだ比較的距離の近い親族は全員健在だったし。
強いて言うなら、小学校の頃に友達の父親が交通事故で亡くなったくらい。
そのとき、僕の友達はお兄さんだったのでなんとか我慢していたけど、弟の方は泣きじゃくっていて、霊柩車が出発する最後まで父親を呼んで泣いていたのを今でも覚えています。
もちろん、可哀相だなぁ…と思ったし、いたたまれない気持ちになりました。
でも、言ってしまえばあれも他人事だったんだな。
僕が悲しんだわけじゃない、僕が死を実感したわけじゃなかったんです。
「親父が自殺して死んだ」という大事件は、僕に想像以上の影響を及ぼし、僕の "死について考え続ける日々" が始まりました。
それまで不眠で悩んだことなど一度もなかったのに、夜ベッドで目を閉じるのが怖くなってしまいました。
「あの強かった父も簡単に死んだ。人間はいつ死ぬかわからない」という恐怖に取り憑かれ、「死んだら何処に行くのか」という不安にも苛まれて、"宗教が生まれた必然性"を身体で理解したのでした。ちなみに死の恐怖は今でもあります。
友達と遊んでいても、常にそんな考えが頭から離れず。気を遣って友達や先輩が遊びに誘ってくれても、僕だけ一人でお通夜のテンションでした。これは周りにも迷惑だろうなと、あまり遊びにも出なくなっていきました。
自分がとどめを刺したのではないか
僕がここまで思い詰めてしまったのには、1つの理由があります。
親父が自殺する約1週間前の夜、本当に久々に親父から電話がかかってきたんですが、家庭教師のバイト中で出られなかったんです。
その後、コールバックすれば良かったのに、僕はそれをしませんでした。
本当に久々の電話だったのに、電話ではなくメールで済ませてしまったんですね。
コレが僕の、悔やんでも悔やみきれない、
一生ついてまわる後悔として残ることになるとは。
僕が確認した中では、同居していた祖父母を除いて、これが親父の最後のコンタクトだったようです。つまり、親父が死ぬ前に最後に連絡したのは、僕でした。
きっと、お金のことで両親に頼ることも出来ず、別れた妻(僕の母)とは音信不通になり、かと言って僕にお金のことを頼むわけにもいかない。先が見えず、いよいよ死ぬしか無い。何かにすがりたい、希望を見出したい。
そんな状況で、藁にもすがる思いで、僕に電話をかけてきたのではないか?
あの時僕が電話に出ていれば、電話をかけ直していれば、
親父は死ななかったんじゃないか?
僕がとどめを刺してしまった?
そんな考えが頭に張り付いて離れなくなってしまったのでした…
ひとまず長くなってしまったので、これにて第1話終了です。
この記事、書く方もかなり疲れます。笑
この後、母親、親戚、友達、先輩…周りの人たちに助けられて徐々に持ち直し、
今では「親父が死んで、良いこともたくさんあった」と思えるまでになりました。
親父の死で、僕が何を思い、何を後悔し、何を学んだのか。
続く記事で、ご紹介していこうと思います。
次回は、どん底に落ち込んだ僕を支えてくれた、ありがたい人たちのお話です!
↓こちらからどうぞ。